8月になって思うこと・・・』      司牧チーム Sr.狩野敦子

 

また幼い命が天の御父のもとに帰ってしまった・・・」事にショックを受けています。と言うと、期日も当に過ぎてからこの原稿を書いていることが、全くばれているのです。が、衝撃を受けているのです。打つ手はなかったのか?どのようにして亡くなっていったのか?等、思い起こすと、益々落ち込みそうです。でも、少なくとも天使祝詞を唱えて、永遠の安息を願うことをしましょうと、自分に言い聞かせています。遅いけど、亡くなってからでも、幼い2人に連帯していくことが今私に出来る事でしょうか。先日来より、ビクトル フランクルを思い出しています。8月15日が近いせいです。

どんなときも、人生には意味がある。なすべきこと、満たすべき意味が与えられている。この人生のどこかに、あなたを必要とする「何か」があり、あなたを必要とする「誰か」がいる。そしてその「何か」や「誰か」は、あなたに発見されるのを「待って」いる。私たちはつねに、この「何か」や「誰か」に必要とされ、「待たれている」存在なのだ。

だから、たとえ今がどんなに苦しくても、あなたはすべてを投げ出す必要はない。

・・・中略・・いや、たとえあなたが人生に「イエス」と言えなくても、人生のほうからあなたに「イエス」と言って光を差し入れてくるときが、いつか必ずやって来るから。たとえ、あなたが人生に絶望し、もう何も期待しなくなってしまったとしても、人生のほうは、あなたに絶望することはない。人生は、死のその瞬間まで、あなたに期待しなくなることなど、決してありはしないのだ。

参考・引用;生きがい発見の心理学、諸富祥彦、2002、NHK出版、77-78

   「生きがい発見の心理学―フランクル心理学 KAZU」をより抜粋

 

神は、今この現実の中におられる事を実感します。私たち1人1人は全くもってユニークな存在です。そしてみんな等しく茨木小教区共同体に呼ばれているのです。イエスキリストを信じて、イエスについて行こうとしています。時には寂しく、やるせなく、大きな悩みの中に入り込んでしまうかもしれません。そんな時こそ、「イエスは私に期待してくださっている。」「同じ信仰を持つ仲間がいる。」事を信じてみませんか?

茨木教会の公報は「からしだね」という名前で、つくづくいい名前だなと実感しました。

                         

                      十字架の印    ロマーノ・グァルディーニ

「十字架の印をせよ、正しく」こんな舌っ足らずの言葉では、意味がわからない。そうではなく、正しい十字架の印を、ゆっくり、大きく、額から胸へ、左肩から右肩へ、である。それが全身を包んだように、感じるか。しっかり落ち着き、あらゆる考えや気持ちを額から胸へ、左肩から右肩への、この印に集中させよ。すると感じるだろうが、印は身も心も包み、集中させ、清め、聖化する。

なぜか。それは万物の印で、救いの印である。十字架にかけられて、われわれの主は、万人を救われたのである。十字架によって主は、人間を余す所なく聖化されたのである。

だから、われわれは祈りの前に、十字架の印をしよう。それがわれわれの心を集中させ、考え、心、意思を神に向けるようにである。祈りの後にもである。神のたまわったものが、心の内に残るようにである。誘惑の時には、神に強められる。危険の時は、お守り下さる。祝福の時には、神のみなぎる生命が心に取り入れられ、すべてが豊かになり、清められるようにである。

以上のことを、十字架の印をするたびに、よく考えよ。この印は、この世で最も聖い印である。正しくせよ。ゆっくり、大きく、思慮深く。すると、それはあなたの全体、姿と心、考えと思い、感じと気持、行動をつつみ、すべてはそれで強められ、清められる。キリストの力で、三位一体の神の名において。

『聖いしるし』ロマーノ・グァルディーニ著 永野藤夫訳 天使館より

 からしだね

2010年 聖母被昇天  第62号 カトリック茨木教会発行誌

聖母マリアの栄光

 

8月には多くの偉大な聖人たちが記念され祝われますが、その中でも特に15日の聖母の被昇天は私たちにとって最も希望と慰めとなる祭日です。

被昇天祭のはじまりは、1950111日に、教皇ピオ12世によって「原罪なくして宿った神の母おとめマリアは、地上の生活を終えて、その体も魂もともに天に上げられた」と信仰箇条として宣言されたことによるものです。マリア様は魂だけではなく、魂も体も神の栄光に上げられたことです。この天に上げられたマリア様の姿に私たちの未来の姿があります。「 わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」(ヨハネ142-3)とイエス様は言っています。聖母マリアはキリストのこの約束の実現の保証です。こうして聖母マリアの被昇天は私たちにとって慰めと確かな希望のしるしです。「キリストと聖霊が私たちの心に湧き上らせてくださる祈りを支えるためにマリアは間に立って母としての執り成しをしてくださいます。教会の祈りは、いわばマリアの祈りに支えられるのです。唯一の仲介者であるイエスが私たちの祈りの道であるなら、イエスの透明なうつしであるマリアも私たちの道を示してくださいます」(『おとめマリアのロザリオ』ヨハネ・パウロ二世回勅〜)。私たちがイエス様に祈るとき、彼は御父の側にいて、御父に執り成してくださいます。一方マリア様は私たちの側にいて私たちの祈りを神様に取り次いでくださいます。聖母の被昇天は、私たちが終わりの日に受ける新しい命を、特別な恵みによって、私たちの先駆けとして、すでに受けたことを喜び祝います。主キリストと共に生涯を歩まれた聖母マリアのうちに私たちが希望と慰めを見出すことができますように祈りたいと思います。

三輪周平神父