主イエス キリストの復活 おめでとうございます。
信仰共同体の皆様と、キリストの復活を感謝と喜びをもって祝いつつも、心はなぜか東北地方の人々の所を駆け巡っているようなこの時、皆様に届けることのできる言葉をみつけることは、とても難しく感じました。そんな時、姉妹と祈った詩篇の言葉が、私の心を促したのです、祈りのうちに送ります。
わたしたちの救い、わたしたちの神よ、あなたは地の果ての望み、遠い島々の希望。
わたしたちに こたえて救いを現わし、驚くべき しるしを行なわれる。
あなたは偉大な力に満ち、みなぎる力で山々をすえられる。海のとどろき、波の響き、民の騒ぎを静められる。地の果てに住む人は あなたの不思議なわざを恐れ、
東と西の果てに あなたは喜びを もたらされる。
あなたは地を訪れて喜ばせ、豊かな実りでおおわれる。
大空に水を蓄え、地に水を注いで麦を与えられる。
田畑に水を送り、土くれをならし、夕立で地を潤し作物を祝福される。
あなたの恵みは豊作をもたらし、あなたの訪れるところに豊作があふれる。
荒れ野の牧場も若草にもえ、丘一面に喜びが こだまする。
野山は羊の群れに満ち、谷は小麦におおわれ、人々は喜びにあふれて歌う。
( 詩篇 65 )
復活されたキリストの光が 東北地方の人々の心のうちに・・祈りつつ
シスター橋本
共同宣教司牧チーム
アデリノ・アシェンソ神父
イエス・キリストのご復活のお慶びを申し上げます。
「典礼は出会いのことだ」という秘儀を読まれる方は驚かれるかもしれません。見てみましょう。典礼は、「教会の活動が目指す頂点であり、同時に教会のあらゆる力が流れ出る泉である」(『典礼憲章』10)。典礼によって、「人間的であると同時に神的であり、見えるものでありながら、見えない要素に富み、活動に熱心であると共に観想に励み、世の中にありながら旅するものである」(『典礼憲章』2)教会が表されます。
典礼は、基本的に「出会い」のことです。同時に横にも垂直にも向かっていく「出会い」。典礼の中心である「ミサ」を考えましょう。
ミサは、キリストの遺言であり、共同体の特別な食事であり、和解であり、感謝であり、終末論的な希望の場であり、キリストの死と復活の記念でるという。また、聖餐の中に教会の本質的な要素があります。私達の相互の関係、世界との関係、更に宇宙と大自然との関係が包含されています。聖餐に与かることによって、私達と大自然との新しい関係が養われます。パンがキリストの体に変わるということは、すなわち全てのパンがキリストの体に変わりうることを意味しています。全てのパン、全ての食物の中に神の命、神の祝福が含まれています。ミサは、「もの」としてのしるしではなく、「出来事」、「行為」、としてのしるしです。聖餐は、それを祝う共同体を変え、その新しい生き方、貧しい人々や世の中で見捨てられている人々への関わりを通して、社会全体に影響を及ぼすものです。ミサとは世への派遣であるので、イエス・キリストとの出会いであり、相手との出会いであり、共同体との出会いであるわけです。
復活されたキリストの生きる体である教会での出会い、日常生活につないでいく出会い。それは主のご復活を味わい、「最高永遠の司祭」イエス・キリストのあかしと奉仕を私たちを通して継続されることです。弟子たちと復活されたイエス・キリストとの出会いがあり、教会は生まれました。「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」(『使徒言行録』2・42)
「典礼は出会いのことだ」。イエス・キリストとの出会い、相手との出会い、共同体との出会い。その出会いを新たにしましょう。
共同宣教司牧チーム Sr.狩野敦子
ご復活おめでとうございます。イエスはいつもいつも私たちを導いておられます。それに支えられて生きている自分を実感します。その私たちが生きる道は険しいです。困難いっぱい、逃げ出したい気分。ではイエスがどのような道を辿られたかを振り返ってみましょう。イエスはゲッセマネの祈りで、弟子たちに起きて、目覚めて、祈ることを願っていました。
「父よ、出来ることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせて下さい。しかし・・」
というイエスの言葉からそれが浮かび上がってきます。
先日、ある事実に基づいた映画を見る機会がありました。フランス人の神父さん、修道士さんたちがある村で、そこはイスラム教の村ではあったのですが、宣教活動を長年行い、周囲の人々への奉仕活動を行い、村人たちとも親しい交流の輪が出来ていました。
そこに突然村を襲撃するテロの一群が現れ、村人を殺害しました。この危険な事態について修道院のメンバーは話し合います。「立ち去るべきか、残るべきか?」と。常識的に考えれば、宣教は難しい状況にあり、継続不可能。だから退去しようという意見が出てきました。共同体は話し合い、祈りました。
そして数カ月が過ぎました。その間も常に危険は付きまといました。時には襲撃も受けました。それでも彼らは祈りを捧げ、最終的に共同体の話し合いの中で、「どうする?退去する?」と、院長は皆に問いかけ、一人ひとりは手を挙げながら、「残る」「イエスがここに呼んで下さったから・・・。イエスと共に・・・」と、意思を表明しました。そしてミサを捧げ、共に食事を楽しみ、記念撮影をして、その夜テロリストの一群が現れ、9人のうち7人を連れ去りました。
彼らは殉教し、御父のみ元へと旅立ったのです。今でも残っている写真は、柔和な顔で、これが死を覚悟していた人々なのかと言葉を失うほどです。1996年の出来事です。
今私自身の心に浮かぶのは、沈黙です。ただ黙っているのではなく、いつくしみ深い神に向かっている沈黙があったからこそ、彼らは決断できたのではないかと思うのです。それがイエスのゲッセマネの祈りと重なります。イエスのまなざしは御父のほうにむけられていました。御父のみ旨に沿って生き、亡くなられたのです。そのイエスを御父はお見捨てにはなりませんでした。死が本当の命へと変わったのです。この希望に支えられて私たちは生きる、そのような幸いを心から感謝したい。イエスの温かなまなざしを感じつつ、私も周囲にその温かさを広げたい。そんな思いがこの世界に広がっていきますように願っています。
からしだね |
2011年 復 活 祭 第64号 カトリック茨木教会発行誌
ト マ ス の 心
司牧チーム 三輪周平
主のご復活おめでとうございます。キリストの復活の恵みが皆様の上に豊かに注がれますようにお祈りいたします。さて、毎年復活節第2主日「神のいつくしみの主日」のミサで読まれる福音は、ヨハネ福音書にあります「復活のキリストと使徒トマスとの出会いの物語」です。毎年復活節になるとトマスのイエス様に対する信仰告白が心に留まります。このエピソードの中でイエス様は、この疑い深いトマスをどのようにされたでしょうか。心頑なで、不信仰な者かと、叱りつけられたでしょうか。こんな不信仰な者はわたしの弟子ではないと、トマスを見捨ててしまわれたでしょうか。イエス様は、叱りつけるどころか、トマスの前に現れて、彼に呼びかけてくださいました。鍵のかかった扉、それはトマスの心でした。そのただ中にお入りになったイエス様が言われたことは、トマス自身が主に求めたことでした。『あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい』と言われます。あれだけの事実を見せられてもなお信じられないトマスに、イエス様がなさったことは、不信仰な彼を叱ることでも、なじることでも、責めることでもなく、むしろトマスの不信仰にイエス様の方から歩み寄り、彼の弱さにご自身を合わせてくださったということでした。
ここでトマスは、促されるままにイエス様の体に触れたかどうかは、聖書に記されていません。しかし、もうトマスにとっては、それはどちらでもよいことだったのではないでしょうか。イエス様がわざわざ自分の許においでくださり、疑いながら主を拒み、ご自分を信じようとしない自分の弱さにまで届いてくださり、降って来てくださった、この恵みの事実でもう十分でした。
そこでイエス様を「わたしの主、わたしの神よ」と呼びかけました。そのトマスに主は、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と呼びかけ、「見ないのに信じる人は幸いである」と約束されました。
私たちにも、同じ呼びかけと約束がなされます。問題が解決したら信じる、状況が変わったら信じるという、「見て信じる信仰」ではありません。こうなったら自分に対する神の愛を信じるとか、祈りの通りに道が開かれたら神の祝福を信じるというのは、「見て信じる信仰」と言えるのかもしれません。たとえ「災いの計画」にしか見えない問題の只中で、それが「平和の計画」であり、「将来と希望を与えるもの」だと信じるのです。何一つ状況が変わらず、問題解決の兆しさえ見えなかったとしても、「見て信じる信仰」ではなく、「見ないで信じる信仰」へと、主イエスは私たちを招かれます。
イエス様の弟子たちは自分の目に見えた復活されたキリストを生涯賭けて、証ししました。今生きている、私たちキリスト者は、目に見えない主キリストを証しする者です。私たちの毎日の生活は必ずしもいいことばかりではないと思います。苦しいこと、辛いことがあります。けれども、わたしたちには、神様がいつも私たちの側にいてくださり、見守っていてくださり、そして愛してくださっていることがわかります。イエス様の復活がイエス個人だけに意味のあることではなかったということを、福音書にある復活の出来事が指し示しています。イエスの受難だけでなく、復活にもすべての人との連帯性があるのです。イエス様が示された復活というのは、神とのきずなの完成であり、同時に人とのきずなの完成です。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(Mt28:20)と約束される復活のイエス様は、私たちが死に臨むときも、さらに死を超えても、常に共にいてくださる方です。これからもキリストに希望をもって歩みたいものです。