高槻・茨木教会共同宣教司牧チーム
アデリノ・アシェンソ神父

主のご降誕、おめでとうございます。
 誕生日を祝う。誕生日を祝うことは、試練に耐える、また試験に合格するよりももっと大切なことだと思います。なぜなら、誕生日を祝うことは「あなたがいてくれてありがとう」とある人に言うことだからです。誰かの誕生日に、「あなたが生まれたことを感謝します。そして、私たちと一緒にいてくれてありがとう」と言います。「あなたが生きていることは素晴らしい。あなたがこの地上で、私たちとともに歩んでくれるのでうれしい。さあ、ともに喜び、楽しもう。この日は私たちが存在し、ともに生きるために造られた日なのだから」とヘンリ・ナーウエンが書いています(『いま、ここに生きる』)。
 私の子供のころの雰囲気を思い出します。
 私は小さな村に生まれました。一人子で、いつも従兄弟と一緒に遊んだり、学校へ行ったり、学校をサボったりしました。実家は、昔から先祖の広い家でしたが、叔父や叔母、従兄弟を含めて十人ぐらいの大家族でした。貧しい生活を送り、たとえお肉を食べたいと思ってもあまり手に入れることができない状態でした。
 それで、クリスマスの時期は子供である私にとって素晴らしいお祝いでした。なぜかというと、プレゼントをもらい、ご馳走を食べる特別な機会だったからです。
 1224日に、母が朝から忙しくてケーキを作り始めました。夕方になって、家族全員揃って、クリスマス・イブの伝統的な季節料理を食べました。それから、家族全員が教会に行って夜の12時に「鶏のミサ」にあずかりました。(「鶏のミサ」という名称の伝統的解説:@メシアであるイエスのご降誕を知らせるために鶏が夜の12時に鳴いたこと、またA夜の12時のミサにあずかって夜明けに帰宅する時に、鶏が鳴くこと)。
 夜中、イエスが家を訪れられてプレゼントを下さるという伝統のため、子供が用意をしなければなりませんでした。村の家だったので、暖炉がありました。暖炉の火をつけ、料理を作るため、それから体を暖める為でしたが、私たちが自分の靴を暖炉のそばに置いておきました。なぜなら、イエス様が暖炉から屋根の上に出た、家庭から煙を屋根の外に導くための煙突から降りて来て私たちの靴の中にプレゼントを入れてくださったというわけです。
 私たちは朝早く起きて、暖炉のところに飛んで行って、プレゼントを確かめました。大喜びの瞬間でした。
 年中に貧しくてご馳走を食べることができなくなったり、プレゼントを貰わなかったりしましたが、クリスマスの時にそのような暖かい、忘れ難い雰囲気でした。
 クリスマスとは、イエス・キリストの誕生を祝う時期です。イエス・キリストの暖かさ、神の優しさが皆様の上にありますよう、また忘れ難いほどの出会いがありますように。

  

「信ずること」

                                                茨木高槻司牧チーム 
                                                     Sr.狩野敦子

主のご降誕おめでとうございます。・・・実を言いますと、この文章を書いている場所では、クリスマスソングメロディを途切れることなく奏でられています。暖かく、コーヒーもあって、心地よいのです。しかしながら、決してキリスト教関係ではありません。では、世界で最初のクリスマスを思い起こしましょう。それは飼い葉桶があるところで、つまりは馬小屋だったでしょう。なぜなら「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったから」(ルカ2章節)です。そんな場所だからこそ、野宿をしている羊飼いたちが臆することなく近づけました。門もなく、玄関もなく、誰でもそっと赤ちゃんを見に来られたのです。

 話はちょっと変わりますが、皆で「親とは?」ということを話したことがあります。ある人は言いました。「自分のことを脇に置いてでも、こどものために動こうとするのが親である」と。確かにそうでしょう。でも人皆すべてが同じように感じているかは疑問です。哀しい現実ですが、わたしが嘗て働いていたところでは、「お父さん= 男=ぶったたく怖い人」という理解でもって、一人の2歳児は男の人が近づけば、『とにかく泣く、怖がる、逃げようとする』の連続でした。

 ところで新たに親となったマリアとヨゼフは、心の準備も十分でなかったかもしれないけれども、生まれた幼子イエスをどのような思いで見つめたことでしょうか。それはこれを読んでくださるお一人お一人の想像にお任せしましょう。マリアとヨゼフの目でもって、ひたすら寝ている新しい命の前にひざまずいてみてください。「このちっちゃな子が神の子???」色々な思いが浮かんできます。クリスマスソングが奏でる喜び、静けさ、平和等々ありますが、私には幼子の前にいて、はっきりしてきたことがあります。それは、父なる神が人間を愛していたこと。よって多くの預言者を通して預言しても自分から離れていく駄目なイスラエルの民を決して見捨てなかったことです。不忠実な人間を赦していました。マリアは、大天使ガブリエルの言葉を、恐れおののきながらも信じました。ヨゼフは、神のご計画を前にして、信じて、マリアを受け入れる決心をしました。羊飼いたちは、天使の言葉を信じて、ベトレヘムへと急ぎました。この頃私が大事にしている言葉があります。「人は信じる人がいてくれたら、立ち直れる。」主のご降誕とは、「信じた神・人々による大きな贈り物」という気がしてきました。今年は特に、人を、出来事を今まで以上に信じたい、愛したい気がしてきました。これも幼子イエスからのプレゼントかもしれません。

からしだね

2011年   クリスマス  第66号  カトリック茨木教会発行誌

           

教会のクリスマスはこれからです

                                             近藤 勉神父

年中行事としてのクリスマスは、ある民放のニュース番組でも言われていたことですが、《年末恒例の国民的イベント》として、すっかり日本社会の中で定着しているようです。とはいえ、その派手な電飾やジングルベルの騒々しさに辟易しておられる信徒の方々も、数多くおられると思います。
 ところで、そんな日本のクリスマスですが、25日を過ぎると今までのイルミネーションと喧噪はどこへやら、売れ残ったクリスマスケーキが行き場を失って、お店の片隅で申し訳なさそうに並んでいます。今で言う《KY(空気が読めない)》、そのままの風景であります。そうです。巷でクリスマスは、とっくに過ぎ去ってしまったお祭りでしかないのです。そんな中で、相も変わらずお祭り気分にひたっている人がいるとしたら、それこそ本当に《おめでたい人》でしかないような気がします。
 でもちょっと待ってください。教会のクリスマスは、12月25日からが始まりです。それも主の公現の祭日(1月6日)直後の主日(主の洗礼の祝日)まで続く長いお祭りです。(日本の教会の場合、主の公現の祭日が主日に移されている関係上、6日が主日でない場合、1月2日から8日の間に来る主日にその祭日を祝います。その際、公現祭が7日以降に祝われる場合、主の洗礼の祝日は、翌日の月曜日に移動します。)もし、世間一般のクリスマスと教会のクリスマスの大きな違いを挙げるとするなら、私は迷わずこの祝祭期間とその過ごし方を挙げたいと思います。実際、ごく普通の人たちが考えているクリスマスシーズンは、教会の暦で言うと、ちょうど待降節に当たる期間です。そもそも待降節というのは、《神の子の第一の来臨を追憶する降誕の祭典のための準備期間であり、また同時に、その追憶を通して、終末におけるキリストの第二の来臨の待望へと心を向ける期間である。》(典礼暦年と典礼暦に関する一般原則39)と記されている通り、本来《備えること》と《待つこと》に、重きが置かれているはずです。特に今年(B年)の場合、その待降節第一主日の福音が、「気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。」(マルコ13章33節)と告げている以上、教会がその季節にパーティーとか結婚式とかとても出来るはずがないわけです。世間の風潮に流されて、クリスマスパーティーを前倒しして祝うことが果たしてよいことか、教会としてふさわしいことなのか、最近とても気になります。「クリスマスは、クリスマスの季節に祝う」。当たり前のことのようですが、様々な理由でそれがふさわしく行われず、信徒の方もこの現実に何ら疑問も感じないとしたら・・・。実際、みんなで食べたり飲んだりする機会は、降誕節中に数多くあるはずですし、もしそれが待てないというのであれば、私たちの信仰生活そのものが、どこかで崩れているのかもしれません。新年の祝いを、年末にすることがナンセンスなように、教会のクリスマスもクリスマスの季節に祝いたい。教会の暦も、それにふさわしい祭日や祝日を、幾つも設けています。降誕祭当日は無論のこと、神の母聖マリアの祭日、主の公現の祭日、とりわけ聖家族の祝日など、子供たちとその家族を中心とした行事を行うのに、一番ふさわしい時ではないでしょうか。

 クリスマスは、ただ単に幼子イエスの誕生を、お祝いしているわけではありません。それは何よりも、神の御独り子が人となられたことを祝う祭日です。それゆえこの祭日は根本的に《受肉の神秘》に根ざすものであり、この偉大な信仰の秘義こそ、この祭日の元来且つ唯一の目的であり内容だということです。


 《神のみことばの受肉》。この神秘を讃え祝うことが、教会のクリスマスです。そのために教会は、この祭日を二つの違った側面から祝い、その両方を通してその神秘を讃え、神であり人であるお方を礼拝します。12月25日の降誕祭が、誕生の出来事に焦点を当て、神の子が処女マリアから人性を受け、人となりたもうことを祝う日とするなら、1月6日の公現祭は、正にそのお受け取られたキリストの人性を通し、神御自身の栄光がこの世界に輝いていることを讃える日です。実際のところ、同じ内容について二つの祭日があるわけですから、少しばかり混乱なさる方がおられるかもしれません。とはいえ、降誕節中の聖書朗読や答唱詩編に目を向ければ、そこに明確な教会の信仰と教えが見えてくるはずです。そこで中心となっているのは、人となった神、イエス・キリストにおいて、神が御自身を現してくださったということです。「闇に輝く光」、「世を照らす光」・・・、これらのみことばは、神の栄光がこのお方を通して輝いていることを私たちに教えてくれます。そしてまた、そのまことの光が私たちと共におられ、その神御自身の光をこの目で見る幸いを告げ知らせるものです。


 俗世のイルミネーションに幻惑され、このまことの光を見失うことのないように。そしてまた、この唯一の光キリストが全世界に輝き渡るよう、私たち一人一人が己に委ねられた洗礼と堅信の使命に忠実であらんことを、祈りたいと思います。