御復活おめでとうございます。
東北の大震災を思い起こしています。そして祈りのうちに見つけた詩です。
消えない願い、哀しい運命のさざ波が
何千、何万もの命を呑みこんだ
大地の慟哭が、何千、何万もの命をかき消した
見上げれば、虚無のごとく灰色の空
見下ろせば、崩壊のごとく砕けた大地
それは人々の心に哀しみの影を落とす
けれどそれでも決して消えないものがある
運命のさざ波にも、大地の慟哭にも、全てを焼き尽くす炎にも
誰にも奪うことのできない、消すことのできないものがある
私は願う、命を、安らぎを、救いを
肉体は滅びてもその一人ひとりの願いは誰も奪えない
世界中の想いが一人ひとりの願いを成就させる光を照らしてくれる
あなたの願いが私の願いになる、私の願いが世界の願いになる
消えない想いとして、消えない魂として、消えない願いとして、消えない光として、消えない希望として
消えることのない願いの成就のごとく、花はただあなたのために美しく咲き開けばいい
消えることのない想いのごとく大地と、空はただあなたのためにそこに在り続ければいい
消えることのない成長と変化のごとく海はただあなたのために穏やかに揺らめき続ければいい
消えることのない人々の心のごとく、夜明けと日没はただあなたのために繰り返せばいい
消えることのない希望のごとく、太陽と月はただあなたのために光り続ければいい
世界はあなたのために願えばいい、あなたは世界のために願えばいい
何度世界の慟哭に呑まれようとなっても
命の願いは在り続ける、願う限り、生きている限り (witch iliasvie 1578さん作)
主は今生きておられる、わが内におられる。すべては主のみ手にあり、今日も生きよう。
主がおられる。
礼拝会 Sr.狩野敦子
イエスの十字架を目の当たりにした百人隊長が、「本当に、この人は神の子であった。」(マルコ15.39)と、言葉を発しました。異邦人であった人の言葉だけが聖書に残りました。多くの人もイエスの十字架を見て、それぞれの思いを抱いたでしょう。ただ、今はそれはわかりません。でも、人々の行動についてはわたしたちも知ることができます。弟子は・・・、逃げました。イエスと行動を共にしていたから、危険を一層感じたかもしれません。ところがニコデモ、アリマタヤのヨゼフ、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、サロメは ・・・・・・。彼らは動き出しました。ハッとして、考えて、頭を上げて、決断したのでしょう。そして、それぞれが互いに協力し合いました。十字架からイエスの体を下すために、アリマタヤのヨゼフはピラトに願い出ました。ニコデモは「没薬と沈香を混ぜたもの100リトラばかり持って来て」(ヨハネ19.39)、彼らは新しい墓にイエスを納めました。女性たちは、香料を買って、安息日が終わってから急いでイエスの墓の元に駆けつけました。互いに心配事を口に出して、話し合いながら一緒に歩みました。道の途中で、復活したイエスに出会うと、「以前言っていた通り、先にガリラヤで待っている」という言葉に、驚き、戸惑い、喜びを感じました。この知らせを弟子たちに伝える彼女たちの歩みは、どんなにか力強いものだったでしょうか?
この体験は、聖書を通して、典礼を通してわたしたちも味わうことは可能ですし、実際この信仰に生きていることを、わたしは振り返ってみましょう。わたくしが茨木教会に足を踏み入れてから、特に何もなく、日々が過ぎ去っていきました。もちろん礼拝会来日を記念する祝いを小教区でみなさまと一緒に祝えたことは喜びでした。でも、皆様と共に生きるということからは、遠かったように思います。イエスがわたくしに話しかけても、その声を十分聴いていたかどうか???でもなぜか神様は、「おーい!」と、わたくしを呼ばれました。そしてそれからわたくしは、茨木教会としての進むべきヴィジョンを話し合い、評議会の在り方をご一緒に見つめなおしました。評議会が規約を検討し直す作業で、一つになって神のお望みを探すということに飛び込んでいくのに気づきました。そしてわたくしもその中に入りました。他にも出来事は次々と起き、その度にたくさんの方々と出会いました。問題にぶつかって、その苦しみを前進するためのばねへと変え、人が、茨木教会共同体が変わっていく姿に接する幸いを数多く体験しました。心配事があれば、そのことを互いに口にし、愚痴をこぼし合い、頭を上げ、前を見つめておられました。それは、ニコデモ、アリマタヤのヨゼフ、マグダラのマリアのように。
みなさまに、「ありがとう」を申し上げます。主のみ名によって集まった神の民の群れが信仰を分かち、喜び、悲しみを分かち、互いに話し合い、助け合っていかれますように。そしてみなさまのやさしさが、教会を訪ねて来られる人に伝わり、神の民が増えるようにと祈ります。
茨木・高槻教会共同宣教司牧チーム
アデリノ・アシェンソ神父
主のご復活のお喜びを申し上げます。
「人々は種々の宗教から、昔も今も同じように人の心を深くゆさぶる人間存在の秘められた謎に対する解答を期待しています。その謎は、人間とは何か、人生の定義と目的は何か、善とは何か、罪とは何か、苦しみの起源と目的は何か、真の幸福を得るための道は何か、死後の審判と報いとは何か、そして、最後に、われわれの存在を包み、われわれがそこから起こり、また、そこに向かって行く究極の名状しがたい神秘は何か、ということである。」
上記の言葉は第二バチカン公会議(1962-1965)の公文書『キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言』一項からの引用です。宗教者・信仰者の役割はそのような現代人の疑問に型にはまった答えを出すことではなく、一緒に探し求めることです。公会議の開催から50年にも当たりますが、その短い文書は、カトリック教会にとっては画期的な内容のものでした。非キリスト教的宗教の中でも高度な教義と霊性があり、救済の要素があるということを認めること、また諸宗教間の対話の必要性を意識することでした。
「諸宗教対話」という表現を聞く時に、どういうイメージが頭に浮かびますか。諸宗教を代表する指導者たちが「救いとは何か」をめぐって、一つのテーブルを囲んで話し合う姿だろうか。異なった宗教を持つ一般信徒同士が何気なく普段の会話の中で、世界の行く末に思いをめぐらしながら、「宗教者として何が出来るか」を語り合う姿だろうか。禅仏教徒がともに禅寺で座禅をくんでいる様子を思い出す人もいるかもしれません。更に、世界各地で異なる宗教が出会い、混交しながら新しい文化を創り出す場合もあります。こういった異宗教の出会いを宗教間対話であるという人もいるだろう。
諸宗教対話は、どういう目的を目指すのか。〜蠍澆紡嵯匹靴覆らともに力を合わせること、∩蠍澆某条を再確認し、互いに励まし合い、自らの信仰においてより深く回心すること、A蠍澆砲茲け洞舛鰺燭─⊆けた恵みを分かち合うこと(『カトリック教会の諸宗教対話の手引き』23頁)。
茨木教会・高槻教会に千里ニュータウン教会が加えられましたので、それぞれの教会で幾つかの変更がありましたが、ご理解いただくようにお願いしながら、新しくなった共同宣教司牧の歩むことにあたり、復活なさったイエスが、人生の旅人である私たちの一人ひとりに対話の心を与えてくださいますように。
ご復活おめでとうございます。
Sr.深瀬 聖子
4月15日から共同司牧チームでお世話になります。シスター深瀬です。
北摂の地区大会などでご存じの方もいらっしゃることと思います。
この信仰共同体の中で共に歩むことができるのを楽しみにしております。
どうぞよろしくお願いいたします。
復活された主が今、ここに私たちと共におられる。・・これは教会のすべての
活動のベースとなるものです。主が共におられるので互いに大切に関わることが
できる。主が共におられるので、喜びは倍に、悲しみは半分になる。主が私たち
と共に生きておられるので前を向いて前進することができる、
ミサに預かるときだけでなく、自分の生活の様々な場で、この生きている主を
体験することができますように。茨木教会の共同体が、この生きておられる主を
あかしする集まりとなりますように、心からお祈りしています。
からしだね |
2012年 復 活 祭 第67号 カトリック茨木教会発行
個性は伸ばすものですか?
近藤 勉神父
「個性を伸ばす」。教育、家庭、社会のあちこちで、近年よく耳にすることばだと思います。そこで主張されていることは、一人一人の違いを認め、同時にまたその違いを良きものとして受け入れ、その人固有の長所として更なる発展を目指すということでしよう。ところで、《個性》という語を広辞苑で引くと、次のように説明されていました。「個人に具わり、他の人とはちがう、その人個人にしかない性格、性質。」、「個物または個体に特有な特徴あるいは性格。」つまり、《個性》という言葉それ自体は、善悪の基準を含むものではなく、単に他の人(もの)と違う固有の特徴や性質を表しているに過ぎないということです。だとすると、《個性》の名の下に、すべて良きものとして受け入れることには、大きな無理があると思います。実際のところ、《他の人と違っていること》や《その人固有の性格、性質》といったことは、良いことでも悪いことでもありません。ある意味、当たり前のことであり、このようなものを無反省に《伸ばす》ことが果たして正しいことなのか、よく考えてみる必要があると思います。ある司祭にこのことを尋ねると、「個性なんてものは、鼻毛と同じで伸ばすものではない。勝手に伸びてくるものだ。だから伸びるに任せて放っておくと、みっともなくて仕方がない。」という答えが返ってきました。皆さんは、どうお考えになりますか。胸を張って個性を主張し、それを存分に伸ばすことをよしとした結果、それが他人の目から見れば、だらしなく伸びた鼻毛のようなものだとしたなら・・・。それこそ、恥ずかしくて人前に出られなくなってしまいます。個性の名の下に己が己であることに固執すればするほど、却ってそれが己の成長を妨げ、己自身を見苦しいものとし、恥の内に人前から去らねばならなくなる。それが、人というものではないでしょうか。
何故、このように考えるのかと言えば、やはり人となられた神、私たちの主、イエス・キリストのことを思うからです。フィリピの信徒への手紙2章6節から10節にかけてこう書かれています。
キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、却って自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、に至るまで、それも十嚔ヒの死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして天井のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。
神の身分にある者、神と等しい者であるお方が、その《個性》を主張することなく、却って己を無にし仕える者となり、へりくだって死に至るまでの従順を貫き通す。考えてみれば、実に矛盾に満ち且つ理不尽な、本当に不可思議としか言いようのない道を、イエスさまは歩まれたわけです。「私は《ある》」とご自分の御名を顕された神が、イエスの内にご自分を《無》としておられる。あらゆるものの上に立ち、支配するお方が真実に《仕える者》《従う者》であろうとされる。ところが、神が神であることを徹底的に捨て去ることによって、却ってこのお方がまことの神であることが明らかになる。この聖書のみことばは、この真理を私たちに教えているような気がします。 '
思うに私たちもまた、己を主張することによってではなく、己を無にすることによって本当の自分の姿が現れてくるはずです。本当に自分の姿、それは《神の子》である自分に違いありません。このようなわけで、人は真に自分自身になりきるために、どうしても己を無にする生き方が求められるようです。くだらない個性を主張し伸ばすことによってではなく、それを切り捨て、キリストの歩まれた道を共に歩むことによって、本当の自分になっていく。その本当の自分とは、人前どころか、神の御前でさえ、堂々と胸を張って進み出ることの出来る自分であり、自分が自分であることを喜びを持って受け入れることの出来る《神の子》である自分であることを、私は信じています。 '
ご復活おめでとうございます。