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グエンジ・カンパタ・ダニエル神父
みことばに養われて生きる。
聖書で調べて( )の中に入る言葉を答えてください。
1.マタイ9:13
わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、(1)を招く
ためである。」
2.マタイ10:16
だから、(2)のように賢く、(3)のように素直になりなさい
3.マタイ25:40
『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も(4)者の
一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
3.マタイ26:52
(5)をさやに納めなさい。(5)を取る者は皆、(5)で滅びる。
4.マルコ9:35
「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、
すべての人に(6)者になりなさい。」
5.マルコ10:14 ―15
「子供たちをわたしのところに来させなさい。(7)はならない。
(8)はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。
子供のように(8)を受け入れる人でなければ、決してそこに入
ることはできない。」
6.ヨハネ3:16
神は、その(9)をお与えになったほどに、世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、(10)の命を得るため
である。
7.ヨハネ8:12
「わたしは世の(11)である。わたしに従う者は暗闇の中を
歩かず、命の(12)を持つ。」
8.ヨハネ8:32
あなたたちは(13)を知り、(13)はあなたたちを自由にする。」
9.ヨハネ12:24
一粒の(14)は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。
だが、死ねば、多くの(15)を結ぶ。
10.ヨハネ14:6
「わたしは(16)であり、真理であり、命である。わたしを通ら
なければ、だれも父のもとに行くことができない。
11.ヨハネ15:5
わたしは(17)の木、あなたがたはその枝である。
人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、
その人は豊かに(18)を結ぶ。
12.ヨハネ15:13 -14
友のために自分の(19)を捨てること、これ以上に大きな(20)
はない。
わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの(21)
である。
13.ヨハネ15:16
あなたがたがわたしを(22)選らんだのではない。
わたしがあなたがたを(23)んだ。あなたがたが出かけて行って
(24)を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって
父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを
任命したのである。
14.ヨハネ16:20
あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲
しむが、その悲しみは(24)に変わる。
15.ヨハネ16:33
これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって
(25)を得るためである。あなたがたには世で(26)がある。
しかし、(27)を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」
マリアに倣おう!
司牧チーム シスター深瀬聖子
『教会の福音宣教の活動には、マリアという生き方があります。というのは、マリアへと目を向けるたびに、優しさと愛情の革命的な力をあらためて信じるようになるからです。マリアのうちにわたしたちは、謙虚さと優しさは、弱い者の徳ではなく、強い者のそれであることを見るのです。』
教皇フランシスコ使徒的勧告福音の喜びより。
人が自分の我(われ)をすべて神に委ねるとき、神は大いなる力を与えてわたしを生かしてくださいます。無力であればあるほど神の占める領域は広がります。そこに人の力をはるかに超えた不思議が実現するのです。聖書が描く聖母マリアの姿を知れば知るほどマリアの生き方に魅力を感じずにはいられません。
わたしはどうしても手放したくない我(われ)を持ちたいと望むので、マリアと遠く離れてしまうのです。自分が無力であることを認めたくないからマリアを特別な女性であると認識することで安心しようとするのです。
神はイエスの母を人に示すことで救いの真の意味を分からせてくださるのではないでしょうか。エリザベトがマリアに語った言葉。シメオンがマリアに予言した言葉。それはイエスの十字架のもとに立ったマリアにはよくわかった言葉だったでしょう。思いめぐらし続けた言葉だったでしょう。そして祈る母マリアは教会の始まりの中に存在しました。マリアの生き方こそ宣教者の土台でしょう。マリアに倣う生き方は、昨日と同じような日常に新しさを見出すヒントを与えてくれます。それは宣教につながる生き方になります。なぜなら弱いけれども強いことが理解できるようになるからです。
聖母の被昇天は思いめぐらし続けたマリアに対する神の応えなのかもしれません。そのマリアを見つめ、マリアに倣ってともに歩いて行きましょう。
からしだね |
2014年 被 昇 天 第74号 カトリック茨木教会発行誌
巡礼の思い出
千里ニュータウン・茨木・高槻教会共同宣教司牧チーム
アデリノ・アシェンソ神父
聖母の被昇天おめでとうございます。
私がはじめてインドのヴァーラーナスィとその偉大なガンジス河を訪れたのは、今から30年前のことですが、ちょうど遠藤周作の長編小説『深い河』の物語の時代でした。当時私は、ヒンズー教の修道僧(行者)と呼ばれる「サードゥー」たちと一緒に瞑想したり、ガンジス河のゆっくり流れる水を眺めたり、野外に設けられている火葬場で働く「ダリット」(アウトカースト、不可触民)の人たちと一緒に紅茶を飲みながら、火葬されるために担架で運ばれてくる遺体を観察したりして、私にとって生と死との血なまぐさい戦いについて熟考する旅になりました。『深い河』について触れてみましょう。
『深い河』の中の登場人物を通して遠藤周作が強調している想定の中の一つは人生の旅ということだと思われます。各登場人物の心を探求してみましょう。磯辺はどんな宗教も信じていない人なので、宗教的経験を持ったことのない人、無関心者の典型です。美津子は、宗教や信仰を否定するのに合理性を持ち出し、聖書の言葉や神に対して何の感情も持たず、宗教は存在しないと言いながら、「本当の愛」を切に求めている人です。沼田は神が「なに」
それぞれの人がそれぞれの気持ちを持って旅行に行きますが、旅行は、いずれの人にとっても個人的に何かを探し求めるためであるわけです。どんな巡礼でも同様であると思います。
全てのヒンズー教徒が切望することは「母なる」ガンジス河に到着することです。ガンジス河への到着は二つの意味を持つと言われています。一つは、人生の終着点を意味し、もう一つは、永遠の命への精神の旅路を象徴しているという。『深い河』の中のイエス・キリストを象徴するものとしての大津は、人々を背負って河へ運ぶことによって彼らが人生を完了するのを助け、永遠の生命の同伴者として彼らに付き添うのであります。
あの旅、あの巡礼をした登場人物の心の変化について考えてみましょう。磯辺のうちに再生しようとしている磯辺の死にゆく妻です。その後、妻は磯辺の心の中で生き続けることになりました。童話作家沼田の場合には、鳥類保護区へ行き、彼の代わりに死んだ九官鳥への感謝の印に放鳥をしたので、解放されたと言えます。イエスのイメージをもったボランティアのガストンは、木口の死にかかっている友達に復活し、最後には木口自身にも生きることになります。イエスを意味する、死んでゆく大津は美津子に生き続けます。
巡礼そのものは心の重要な転換点に導きます。人間は人生の旅人なのですが、目指す目的地は地平線の彼方にあります。巡礼中に心の変化が不可欠です。