共同宣教司牧チーム
Sr 橋本 とも子
みことばは人となって、私たちのうちに住まわれた(ヨハネ1章14)
<福音の喜びは、イエスに出会う人々の心と生活全体を満たします。イエスの差し出す救いを受け入れる人は、罪と悲しみ、内面的なむなしさと孤独から解放されるのです。
喜びは、つねに、イエス・キリストとともに生み出され、新たにされます。>(EG,1)
聖書の次の箇所を、ゆっくり味わってみますと、何か伝わってくるのではないでしょうか。
イエス・キリストと出会った「サマリアの女」(ヨハネ4章4~30)
イエス・キリストと出会った「10人のらい病者」(ルカ17章11~19)
イエス・キリストと出会った「徴税人ザアカイ」(ルカ19章1~10)
彼らはイエスに従う喜びを体験しました。イエスに従う者には生きる意味を見出すことができます。命はしまっておくものではありません。与えるものです。人を幸せにするのは自身を与えることのみです。(マルコ8章34~36)イエスにつづく喜びを求めましょう。私の心を満足させる深い幸いの体験です。すべてのキリスト者は福音の喜び、福音宣教の喜びを培っていくよう常に招かれているのです。
私が最近招かれた福音のことばは=どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。=(フィリピ4章6)
このことばは、日々の生活の中で神と親しく交わるため、私にとって素晴らしい呼びかけであり、招きのことばでもあります。神に打ち明けなさい。
生活の中で予期せぬことが起こってきます、そして悩みはじめて、思い起こすみことばです。私はゆっくり神様に打ち明けはじめます細かく、そうすれば後は神の平和が与えられ、心と考えとをキリスト・イエスによって守っていただける体験がしばしばあるのです。
私の日々の生活の中で働いてくださる神様は=神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。=(ルカ20章38)
私たちは神のことばに照らされて、自分の生活を見ることが大切だと思います。そこに神の呼びかけ、招きがあります、それに自分なりに応えることをすれば、呼びかけられた方、イエスに出会いイエスの差し出す救いを受け、喜びそしてイエスとともに、分かち合える人になっていくことでしょう。
あ り が と う
クエンジ・カンパタ・ダニエル神父
その夜、イエスは、パンを取り、賛美の祈りを、杯を取り、感謝の祈りを・・・
これをわたしの記念としてこのように行いなさい
「それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」
食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。」
(ルカ22:19-20)
聖餐式はイエスが自分の生命を裂いて、自分の生命を注いだ記念です。
楽しい記念ではない、十字架に付けられた人の痛ましい記念です。
1.
聖餐式はイエスの生涯を記念する
イエス・キリストの生涯を思い起こすと、ヨハネ10:10とヨハネ3:16に書いてあることばが頭に浮かんできます。「・・・わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」イエスの生涯の使命は人々に豊かさと救いを与えることです。具体的に「豊かさと救いを与えるためにイエス・キリストが行われた活動の理念は貧しい人に福音を告げ知らせる、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」(ルカ4:18-20)
イエス・キリストを受け入れた人々は聖餐式を行うたびにイエスの理念を受け継ぐ、
「貧しい人に福音を告げ知らせる、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」あなたも、イエス・キリストの使命を受け継いで生きて歩んでみませんか。
2.
聖餐式はイエスの共同体の一つの基です
イエスの友として生きていくうえで、聖餐式は非常に大切です。同じ食卓を囲んで、同じものを食べる皆は、仲間です。イエスの共同体です。イエスによって共同体が成り立ちます。キリストによって、キリストとともに、キリストのうちに共同体の交わりが基づいています。イエスの名によって集まった人々は支えあい、生かし合って、人生の旅路を歩む力を受けます。イエスが言ったように「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。」(ヨハネ6:56-57)「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。
彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。(ヨハネ17:21)
3. 聖餐式は十字架に付けられたイエスの記念です
イエスが歩んだ道の頂点は十字架でした。社会から排斥され、侮辱されて、死刑判決を受けて十字架に付けられた方でした。その犯罪人の記念を行うことは簡単なことではない。十字架に付けられた理由は宗教的なものであれ、政治的なものであれ、当時の指導者にとってイエスは危ない存在でした。そのイエスを称えて、主として受け入れて、ヒーローとして従っている共同体は社会にとって危ない存在になりました。イエスは当時の社会の在り方、指導者にたいして反発して戦った。弱い人々の立場に立った。
妥協しなかった。イエスの共同体がイエスの思いを受け継いで、弱い人々の味方になり、捕らわれている人の解放、圧迫されている人の自由のために戦う共同体にならなければならない。社会の在り方によって危ない存在になります。排斥されて迫害をされる可能性があります。その覚悟をしてイエスに従いましょう。
4. イエスは今も生きている
イエスの共同体の皆様が集まって、パンを裂く、ぶどう酒を注ぐことによって
あがないの記念をともに行って、キリストの死と死者のもとにお下りになったことを思い起こし、その復活と 神の右に上げられたことを宣言し、栄光のうちに来られることを待ち望んでいます。イエスの救いの業は過去のことでなく、今もイエスが生きています。聖餐式はあがないの記念であり、この食卓に与る人に救いの恵みが与えられる。聖餐式はイエスのいのちのお祭りです。今も、聖餐式でイエスが救いを与えてくださいます。
ありがとう。
「福音の喜び」それは、私がイエスという『金太郎あめ』になること
『イエスの生涯、貧しい人々に対する接し方、振る舞い、一貫性、日常的で気負いのないやさしさ、そしてその最後の全面的な奉献、それらすべては尊く、わたしたち一人ひとりの生活に訴えています。それにあらためて気づくたびに確信が得られます。わたしたちが造られたのは、福音が示すこと、すなわち、イエスと友情を結び兄弟姉妹を愛するためなのです。
福音宣教に対する熱意は、この確信に基づくものです。
しかしこの確信は、イエスの友情とそのメッセージを味わうという,自らのたえず新たにされる体験によって支えられるものです。自己の体験に裏打ちされた確信なしには、情熱に満ちた福音宣教に精励することはできません。』(教皇フランシスコ 使徒的勧告 福音の喜びより)
9月に行われた三教会合同研修会で、三名の信仰体験に耳を傾けました。一人ひとりのイエスとの出会い、福音のメッセージの気づきを知って感動し力づけられました。教会共同体の宝を発見した思いでした。
教会に属するわたしたちは自分の人生のどこかでイエスとの人格的出会いをしています。
この体験が自分の生活を変え、言葉や行い、さまざまな選びとして表面に具体的に表れるとき、社会にとってわたしは福音宣教者であるのです。
福音書を読めば読むほど、祈れば祈るほど、イエスの愛にたどり着きます。イエスを「金太郎あめ」に例えるならば、どこを切っても愛が出てくるはずです。そのイエスがわたしを招きます。「あなたも愛のある『金太郎あめ』になりなさいと。・・」福音を宣教するとは、声を出して福音を伝えることだけではなく、生き方そのものが福音的であると周りの人が私を見て気づくことです。気づいてもらえるためには、わたしがイエスとの出会いを大事にすることが肝心です。祈ること、みことばを深めること、もちろん秘跡にあずかること。聖体に養われ、ゆるしの秘跡できよめられること。生活のリズムにこれらを入れて生きることです。愛のある『金太郎あめ』となるようイエスに倣いましょう。毎日が福音の喜びを生きるものとなりますように! メリークリスマス!!
からしだね |
2014年 クリスマス 第75号 カトリック茨木教会発行誌
高槻・茨木・千里ニュータウン教会共同宣教司牧チーム
アデリノ・アシェンソ神父
恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える
(ルカ2・10)
去る10月、ポルトガルのテレビでインタビューを受けた時のことです。質問の中の一つは「どのようにすれば日本の文化風土の中で福音の喜びを伝えることができるのか」ということでした。私は日本の滞在経験に基づいて記者の質問に答えてみましたが、そのためには前提としてあげなければならないことがありました。それは「東西関係」あるいはもっとはっきり言えば、「西洋の一神論文化と日本の汎神論世界の間の矛盾と摩擦」という。日本の汎神論的環境は、西洋の一神教の宗教的伝統と調和できるのか?この問いに答えようとするには、まずイエスについての感覚を考えなくてはいけません。
ディートリッヒ・ボンヘッファー(1906-1945)が彼の時代の人々にとってキリストがどのように必要であるかについて問うていました。何故なら、美的・文学的表現の可能性がむずかしい学問的キリスト論によって取り除けられてしまっていたからです。今日、我々にとってキリストはどういう人かを見つけ出すことは、我々がキリストの新しいイメージを見つけ出すように努めなければならないと思います。この新しいイメージのキリストは、勝ち誇るコンスタンティヌス帝時代の表現で描かれるものではありません。何故なら、勝ち誇るキリストはもはや語りかける力がないからです。
ここで、遠藤周作の小説におけるイエスのイメージが浮かびます。『おバカさん』と『わたしが・棄てた・女』にはじまり、『沈黙』でよりはっきりした形をとり、『深い河』で完成しますが、そのイメージの主な特徴は以下のように三つあります。イエスは、弱く無力であり、人間の生涯を通しての同伴者であり、母性的な憐れみをもって赦すという。
1)弱さの中で、彼は人間の弱さ、惨めな者の心を理解することができるのです。無力で弱いからこそ、彼は我々とともにあり、我々の弱さに同情でき(ヘブライ人への手紙4・15-16)、我々の弱さと苦しみを受けるのです。
2)エマオの物語(ルカ24・13-35)が描くように、イエスは我々の人生の旅路の同伴者であり、いったん彼と触れ合った人を棄てることはできません。
3)母性的な特徴とは、冷たさや厳しさをまったく持たず、すべてを赦すイエスです。
「どのようにすれば日本の文化風土の中で福音の喜びを伝えることができるのか」と。
ジョン・ナヴォネが強調するように、「神は人間の物語を通してあらわれる」のです(J. Navone, Seeking
God in Story)。キリスト教の神は、人間から離れた傍観者ではなく、その光と影、喜びと悲しみ、快楽と苦痛、強さと弱さの両者で、人間の生涯に関わっています。
主のご降誕を祝うごとに、幼子について黙想し、上記の三つの特徴を強調すべきです。イエスがお生まれになったのは、一人ひとりの人間の同伴者であるため、我々を赦すため、また弱い人と一緒に無力さを味わうためです。それは我々の喜びの原因、福音の喜びの源泉です。キリスト者(「キリストの者」という意味。それは、第一に、キリストと結ばれている者、つまりキリストを自分の生活の中心にして生きる者。第二に、キリストに結ばれているからこそ、キリストの仕事を実行する者という意味)である我々がその喜びを味わい、伝えていくことなのです。
主のご降誕の喜びを申し上げます。その喜びを互いに伝えあいましょう。