2021 復活祭   91   カトリック茨木教会発行誌

主の死を思い、復活を告げ知らせよう、主が来られるまで

清川泰司神父

復活祭おめでとうございます。去年は、新型コロナウィルスの影響で受難の主日(枝の主日)、聖なる三日間、復活徹夜祭、復活祭の公開ミサが行われませんでした。今年は、何とか皆さんの配慮により、公開ミサを行う事が出来ます。

これまで復活祭の風物詩としてミサ後にイースターエッグが配られ、パーティーでは笑顔あふれる時を過ごしました。コロナ禍、この風景を味わえない事に、寂しいという声を聴きます。ただ、このような時だからこそ、皆さんと、風物詩を超える、風物詩を本来支える「主の死を思い、復活を告げ知らせよう、主が来られるまで」を心に刻み、信仰を深め、神の希望に繋がる喜びを享受したいと思うのです。

 

皆さんもご存じだと思いますが、ミャンマーという国があります。軍事政権から数年前に民主化を果たしました。しかし、今年の2月、軍事クーデターがあり、再び、軍事政権が支配する事になり世界的問題となっています。私自身、民主化を求めるデモにより犠牲者が生まれていることを耳にし、心を痛め、祈りをささげています。

今から15年ほど前、以前ミャンマーで宣教活動をし、軍事政権により国外に追放され、結果、日本で長年宣教をしたフランス人神父が母国に帰国する際、2人で食事を共にしました。その神父は、軍事政権になった後のミャンマーの信徒について、こんな話をしました。

「軍事政権以前、彼らは、日本の信徒のようだった。軍事政権になり、教会の学校(ミッションスクール)は奪われ、教会の建物や財産の殆どが軍事政権に奪われた。しかし、彼らの中に、目が覚めたように、キリスト者としての存在の意味を真剣に考えるようになり、キリスト者として成長した者も生まれた」という話でした。

私とこのフランス人神父とは、世界的観点から信仰の本質を分かち合う友でもありました。その神父の言う「キリスト者としての成長」という言葉は、信仰の基礎に基づく評価であり、ミャンマーの信徒の中に、その「信仰の核心」を深めた人々がいたことが想像できるのです。

 

そもそも「信仰の核心」とは、イエスの弟子である使徒の体験からのものです(使徒伝承)。十字架刑により、弟子たちの希望であった「イエス・キリスト」が奪い取られます。その事により、弟子たちは失望する事になるのですが、イエスの復活により、それまでの希望が、たんなる利己的野望であることを痛感する事になります。そして、聖霊により、理解できなかったイエスの言葉と行いの真意を理解する出発点に立つのです。さらに、使徒たちは、すべての人、万物の救いを望む「神の御心」への繋がりこそが、本当の意味での希望であることに気づくのです。

このことこそが、永遠なる神の愛と繋がり生きる尊厳ある人間の姿であり、世の価値観により見えなくされた「神の子」として尊厳を取り戻す事になるのです。これが、復活の「いのち」に預かる事なのです。つまり、私たちがミサの中で唱える使徒信条の一文、「からだの復活、永遠の命を信じます」という言葉の起源といえるのです。そして、この信仰を思い起こし、神との繋がりを強めるために「秘跡」があり、究極には「聖体拝領」により、キリストに繋がる者となるのです。この営みに、「信仰の核心」があるのです。

そして、この「信仰の核心」に繋がる喜びを人々に伝える事こそが、宣教となるのです。ゆえに、私たちはミサの中で唱えます。「主の死を思い、復活を告げ知らせよう、主が来られるまで」と、全人類、また万物の救いを切に望む「神の御心」と繋がる現実味を、ミャンマーの信徒は実感したのでしょう。そして、軍事政権下においても、神への希望を失わない力を得ていた事が想像できるのです。

 

さらに、カトリックの伝統に基づく聖書解釈を通して見出される「神の御心」は、人間に真実を見極める力を与え、変わりゆく世界の中で、変わりゆかないもの、永遠に変わらないものを見出させます。その中で、永遠に変わらない神の愛に信頼する事により、神は、その人を育むのです。この実感こそが、カトリック信仰の基礎であり、「復活のいのち」に預かる事でもあるのです。

 

私たちは、神に掛け替えのない「生命」を頂いています。その「生命」を「聖体のいのち」と一致させることにより、「復活のいのち」に召される恵みを頂くのです。この恵みの力を理解し、それを信じ、生きる事が出来るように、今年の聖週間の式の中で、祈りを捧げました。そして、ミャンマーの平和の回復を願い、また、世界の平和の為に祈りを捧げ続けます。

 

 


 

 

主の復活という変化が私たちに示すこと

シスター深瀬聖子

アレルヤ!主は復活された!

2021年の復活祭、おめでとうございます。

昨年のこの季節、公開ミサは中止され、私たちの行動も制限され、主の受難も復活もこれまでの当たり前を覆し、典礼本来の意味を考えるようにと動かされた一年でした。このような体験を過ぎ越して、今年はまた新しい意味づけをもって復活祭を迎えました。

週の初めの明け方早く・・私にとっての週の初めの明け方早くとは、いったいいつなのでしょうか?主が復活するという今までに体験したことのない現実を、墓に行った女性たちが目にするのです。イエスは殺され、ユダヤの慣習に従って墓におさめられたのです。そこにイエスの亡骸があって当たり前なのに、なかったのです。

人の常識を覆し、死をも超えるいのちへと私たちを招くイエスは、2021年も同じような出来事を通して、私たちを招いておられるのではないでしょうか?

世界中に修道院がある私の姉妹たちから、今でもコロナ感染症で命を落とした司祭やシスターやその家族たちのニュースが入ってきます。世界のどこかでは絶えることなくロックダウンが行われています。平等にワクチンが行き渡らない現実があります。希望が見えないこの時、悲しみや苦しみにあえぐ人々と連帯しながら、私たちは今までとは違ったつながりを生きるようになっています。

主の復活という新しい夜明けを迎えた今、私たちは誰とどのようにつながり、関わらなければならないのか、『当たり前』をわきに置き今一度、イエスのことばや行ないから、神が望むつながりやかかわりを生きるよう意識しなければなりません。

多くの苦しみを抱えながらも、そこに希望や光を見いだす人々がいます。死の恐怖におびえながらも、新しいいのちの誕生に未来を確信する人々がいます。現実の中に隠れるようにちりばめられている復活の希望をみつけられるよう、前を向いて共に歩いていきましょう。

私たちの目の前に、復活された主が立っておられます。喜びをもってこの復活節を過ごしたいものです。

 

 

  

             

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