人類の成長を諦めない神の愛

                                清川 泰司 神父

 

 主の御復活おめでとうございます。

教皇ヨハネ・パウロ二世が 1981 年に日本に来日し、広島の平和公園での『平和アピール』の中で「戦争は人間の仕業です。戦争は人間の生命の破壊です。戦争は死です。」と語りました。

現在、新型コロナウィルスの影響、また、ロシアのウクライナ侵攻によって、愛する人を失い、生涯、悲しみを背負わなければならない人が生まれています。

人類は歴史上、疫病、天変地異に翻弄され、また自ら戦争を起こし、悲劇も作り出しました。さらに、災いを拙い感情と狭い視点における正義観によって、人間が悲劇を拡大させてきた経験もしているのです。それは、人間は、自己の救い、家族の救い、仲間の救い程度しか求めることが出来ず、いまだに「イエス・キリスト」が伝えた「神の御心」である、全人類の救いを求めることができない致命的現実があるからです。

私は、第二次世界大戦の悲劇を体験した人類が、自らの致命的現実から生まれる残虐性を自覚し、少しは成長したと思っていました。残念なことに、今回も、独裁的為政者が、戦争の引き金を引いてしまいました。人類史上、貧富の差と、人々の富と力への欲求からくるコンプレックス、そして、その不条理からくる怒りと、拙い感情的正義観による暴力的エネルギーにより独裁的為政者[似非救い主=偶像]は、生まれてきました。

現代世界は、経済を土台に IT を駆使し合理化を加速させています。随分便利になりました。しかし一方で、合理的に富が一定の人々に集中するシステムを生んでいます。そのシステムの中、低賃金で奴隷にように働き、やるせない思いを持つ人々を生んでいるのも確かです。その思いによって、根拠のない力(偶像)への要求が生まれ、各地で独裁的為政者を生んでいるのです。その為政者は、根拠のない力である国家主義、民族主義、イデオロギー、宗教などを利用します。また、それに魅せられる人々は、自分が属する仲間、また考えと違う者と対立し、排除する傾向があります。そのエネルギーを為政者は、自分の利益と保身の為に利用するのです。

聖書は、人間の富と力への憧れ、その欲求から「偶像神」を作る傾向がある事を明 らかにします。つまり、人間が自分の都合の良い神を作り、依存する傾向があることを暴くのです。聖書は、様々な物語を通して、人間が「主なる神」よりも、自己の欲望、願望、野望、保身、感情により様々な「偶像神」を作ることを明らかにします。究極的には、イエス・キリストが「神の御心」を現す言葉と行いによって、人間の心の奥底にある偶像の正体を明らかにするのです。イエスが伝えた「神の御心」は、すべての人は兄弟姉妹であり、いのちの優劣はありません。また、対立ではなく和解を求めるのです。この「神の御心」を基準にすると、「戦争」や「差別」、また「優越感」と「劣等感」が生まれる世界を作るのは、「神の仕業」ではなく、「人間の仕業」ということになるのです。

神は、この人間の平和を作ることのできない致命的現実(罪深さ)を明らかにするために、今から約二千年前、御自分の子「イエス・キリスト」を、この世に派遣しました。そして、その目的は、偶像の正体を明らかにし、本来の人類の成長の道を整えることでした。そのイエスが「神の御心」を伝える方法は、人間の富と力への欲求により作り出された社会の中で、無力で、差別され、尊厳を失った者の側に立ち、人と人を分け隔てる壁を崩し、和解を生むことでした。そして、その和解の仕上げに、自らも、人間にとって無力で役に立たない、邪魔者となり、人間の野望や欲求、正義感の中で、十字架刑により殺され、神からの使命を成し遂げたのです(ヨハネ 19:30)

この出来事により、人間の力への欲求(知恵・名誉・富・権力・正義)が、神の子をも殺し、弱く、貧しくされた兄弟姉妹を無視し、尊厳を奪い取る、その現実を明らかにしたのです。イエスは十字架上で「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ 233334と言ったのは、この意味なのです。

その一方で、神は、人間としての致命的現実から来る乏しさを痛感し、「主よ、憐れみたまえ」という者には、御自分との豊かな交わりを作り、その上で、「御国が来ますように、御心が天で行われるように地にも行われますように」と祈る者に、神から与えられた本当の「いのちの意義」(神の協力者)と希望を見出す恵みを与えるのです。

四旬節、聖週間、そして復活祭を通して、私たちは、この神の救いを確認する恵みをいただきました。現代の経済を重視する合理化された世界の中で優越感に浸る者、一方で劣等感に苛まれ自暴自棄から根拠のない力に頼ろうとする者には、「十字架」は無意味であり、無力と感じるでしょう。しかし、人類の歩みの中で「十字架」は、人間の致命的愚かさからの解放のシンボルであり、人間が「神の似姿」(神の協力者)として復活(再創造)するための「永遠の神の愛」のシンボルであることは変わらないのです。

 

世界の平和の為にお祈りください・・・。

 

ナポレオン[1769-1821]は、部下の文部大臣に厳粛な顔つきで「フォンターヌ、君は知っているかね、この世界で私をもっとも驚かせるものが何かを、力によっては何も作り出せないということだ。剣は最後には常に精神(イエスの十字架の記憶を想定)によって敗北させられるのだ。」と。

 
 
 

復活なさった主とともにこの道を

                             シスター深瀬聖子

 

 世界中がコロナ感染症に苦しみ、世界の人々が平和をせつに願うこの年、教会は主の復活を祝う新しい時を迎えました。

 私たちは旅する民です。主とともに一人一人が与えられた各々の道を歩いています。時には主を見失い、本来歩くようにと用意された道をそれ、孤独をかみしめ、『我』と対峙し、さまよっているように見え、主の望む救いとは程遠くにいる自分を知り、おののいてしまいます。けれども、主はいつもともにいてくださるのです。私が実感しなくてもともにいらっしゃいます。

 エマオの道を行く二人の弟子の体験は、ともにいる主を実感したものでした。 イエス様に希望をかけ、この方こそ救い主であると確信し、従ってきたのに、彼らの思う救いや希望は主の十字架と死によって見事に裏切られました。さらに想像もしなかった出来事に、なおのこと彼らにとっての主が遠くなってしまったのです。それは復活です。まるで信じられない出来事です。

 なんとその復活された主がエマオへの道すがらともに歩いているのです。

 幸いなことに・・ともいえるのでしょうか、二人の目はさえぎられていたため、この同伴者である旅人に自分たちのがっかりした思いをぶつけることができました。 もしここで主であることが分かったならば、彼らは自分の疑念をぶつけることはできなかったでしょう。

 私たちの信仰生活も、時にこのような姿を取ります。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」というイエス様の言葉はそっくり私に向けられた言葉です。

 主の復活を、聖書を通して知っている。もちろん復活を信じている。と、宣言していても本当に復活とは何なのかはわかっていないのです。私の知る復活ではなくて、主の復活を単純素朴に知ろうとすることが必要です。主と出会うことが大切です。そしてともに旅するのです。復活された主が主の望む姿に私を変えてくださるように、私を解き放ち、応需性に満ちた生き方に取り掛かりましょう。復活された主の眼差しが私の中で働けば、すべてのものの持つ意味がはっきりと分かるでしょう。

 今こそ、苦しみや、奪い去られる多くのいのちの中にある復活の意味を発見するときです。教会とともに、神の民のメンバーとして、この道を歩いていきたいものです。罪からの救いを絶対に忘れない復活された主とともに・・・

 

 

 
 
 

 

 


  

             

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        2022 復活祭   93   カトリック茨木教会発行誌