2023年 復活祭 第95号 カトリック茨木教会発行誌
カトリック高槻・茨木主任司祭 清川 泰司神父
新型コロナウィルス、インフルエンザという疫病、ロシアのウクライナ侵攻による戦争、トルコの大震災と人間の「いのち」を脅かす様々な現象が起きています。歴史上、古代であれ、現代であれ、人類は「いのち」が脅かされる様々な問題に対峙してきました。「病」、「疫病」、「天災」、「人災(戦争、殺人、人為的事故)」、「貧困」等により、多くの人が苦しみと死に直面し、また、愛する者の死の前に、悲しみに打ちひしがれてきました。しかし、すべての人は、確実にいつか「死」を迎える運命にあることも確かなのです。
キリストの生涯、究極的には「死と復活」によりもたらされた「いのち」は、上述した人間が直面する「生命」の営みとは、次元の異なる「いのち」を人類に提示しています。そのことは「ミサ」の中で、皆さんが頻繁に耳にする「復活の命」、「永遠の命」です。実は、この次元の異なる「いのち」に預かることを可能にするのが「ミサ」であり、そして、それを意識し、人生の中で、その恵みを深め、生かすために四旬節から復活節の期間があるといっても過言ではないでしょう。
「ミサ」の中心テーマは、聖書全体に描かれる「神の人類救済への切なる御心」と、それを世に完全に現したイエスの十字架の死と復活によりもたらされた「復活の命」、「永遠の命」に繋がる「御聖体」に与ることです。この恵みに与り、それを深く理解することで、ただただ生き延びるだけの「生命」とは異なる、次元を超えた「いのち」と繋がることになるのです。それは、不完全な人間の「生命観」による営みの不備を痛切に感じさせ、人類の救いを諦めずに導く「神の永遠なるいのち」に繋がることを実現させるのです。
聖書全体の流れを理解すると、人類救済を切に願う「神の御心」に従い生きることの出来ない人間の致命的特性に気づかされます。この特性が「原罪」ということになるのでしょう。この致命的特性を支えているのは「自己愛(エゴイズム)」です。聖書には、「悪霊(悪魔)」が登場します。その「悪霊」は、自らが天地万物の秩序を司る神よりも、優れていると思い込みたい存在であり、自己満足を獲得することが真理とする存在と言えるでしょう。その点で、「悪霊」は人間が持つ「自己愛」と結びつきやすく、その自己愛を助長し、心と体を支配するのです。そして、最終的に「悪霊」は、人間を「苦しみの牢獄」に陥れるのです。
その「苦しみ」の現象は二つあることを感じます。一つは、自分だけが健康で、自分だけが楽しく、自分だけが儲かり、自分だけが愛され、自分が最も優れていると認められ、尊敬されたい、その思いが成就しないことから来る「苦しみ」だと言えるでしょう。もう一つは、それがある程度成就し、それを保持し、それを守り、膨らませたことから来る、それを喪失した時に訪れる「苦しみ」です。この二つの「苦しみ」の基にあるのは、「自己愛」であり、それに支配された人の人生の末路は「自負心」、もしくは「自暴自棄」の牢獄のまま、神の無条件で与えられる愛を味わうことのないまま、この世を去るのです。
さらに、「自己愛」の総体が、さらなる「苦しみ」を広げる結果を生みます。それは、人間の未熟な正義感がもたらすものです。人間は正義を求め、平和を求めます。しかし、それは、キリストが示した神の正義と平和の完全性から見ると、単なる自分本位の正義であり、その正義により他者と裁き合い、人類は悲劇を生んできました。さらに、それが拡大化して戦争も起こしてきたのです。その狭き視野における人間の正義は、自己のみの救い、家族のみの救い、仲間のみの救い、自分が属する国家・民族のみの救い、自分が属する宗教団体の信者のみの救いに留まるのです。また、人類史上、世界平和を訴え、中にはキリストを自称し、扇動する者が現れ、その陳腐な正義に酔いたい集団が生まれ、考えの違う者と対立を作り、その中で素朴で無力な人の犠牲を生んできました。それは、小さな所から大きな所に至る迄です。その扇動する者、そして正義に酔いたい人々をキリストの正義と比べた時、結局、その一人一人の正体は無責任な「自負心」と、「自己愛」、「自己顕示欲」「刺激に酔いたい者」の集合体に過ぎないのです。
「イエス・キリスト」は、人間の陳腐な知恵による正義の渦で、犠牲になる声なき、また素朴で無力な人の側に立ちました。そして、人間の知恵による正義の狭さを暴く言葉として「敵を愛せよ」(マタイ5:43-48)という言葉を投げかけ、人間の自分本位の正義や真理による裁きを打ち砕く為に、「父(神)は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ5:45)と語りました。また、イエスは「天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者と成りなさい」(マタイ5:48)と語り、底知れぬ愛と赦しである「神の御心」の完全性へと招こうとしたのです。さらに、イエスは、「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」(ヨハネ12:25)と語ります。この言葉によって、人間を自己愛と自己顕示欲の牢獄から解放し、神の永遠なる愛の営みに招くことを諦めないのです。
仕上げに、イエスは、その神の愛を人類に示す為に、人間の陳腐で未熟な正義を基にした裁きの渦の中で、独りで「十字架刑」(神との深い信頼関係の中)により処せられたのです。そして、神は、全人類を悪魔の支配から解放することを永遠に諦めないしるしとして、イエスを「復活」させました。さらに、神は、この恵みを「聖霊」により継続し、私たちは、御聖体(キリストの体)を頂くことで、「神の御心」と繋がる恵みを頂くのです。そして、この恵みを受けた者は、切に人類救済を望む、永遠なる御心と繋がり生きることから、イエスは、「決して死なない」(ヨハネ11:26)というのです。
その「永遠の命」に繋がる者は、自らの業績が、人類救済を求める神の愛の壮大なる大河の一滴に過ぎないことを理解しており、また、時代を超え、その大河から、また水を汲む者が現れることを希望するのです。ゆえに、その人は、自己を消し「神の御心」を指し示す者になるのです。それをイエスは、十字架の死によって、人類に示したのです。
イエス・キリストは、人類に完全なる「神の愛」を示しました。しかし、私を含め信者の多くは、このイエスが示した完全なる救いの御業を理解しないまま洗礼を受け、未熟な理解のまま信仰の生活を続けています。その中で、私は司祭になり「神の愛」への理解を深める恵みを頂いています。信徒から、次のような質問を受けます。「愛せよと言われても、私には愛する特定の人がいません」という質問です。その言葉の背後には、「自分が愛されたい、認められたい」という打算的エゴイズムがあり、神に対する理解の未熟さを感じます。そんな時、私は、「特定の人を愛するのではなく、全世界の人々を愛するという目的を持つことの方が大切だ」と語ります。そして、「それを可能にするのがミサだ」と言います。
ミサ全体は、自分の救いを越えて、全世界の人々の救いを望む神と繋がる場です。そして、洗礼を受けた人は、その「神の御心」に繋がる恵みを受けているのです。さらに、イエスの言葉を理解することにより、ミサの中で、様々な想像を生みます。それは、今、世界中で孤独に苦しむ人、貧困に苦しむ人、病に苦しむ人、阻害された人、愛する人を亡くした人、取り返しのつかない罪に後悔する人などなど、様々な苦しみに対して関わる「神の御心」への想像性を高めるのです。この想像性により、自己愛と自負心の牢獄に居る自らの心の貧しさを痛感します。この貧しさの自覚こそが、「神の御心」に繋がる芽生えとなるのです。その意味でイエスは「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」(マタイ5:3)と言葉を投げかけるのです(過越神秘)。そして、その芽生えにより、神は、その人に、普遍であり、永遠である御自分の御心に繋がる道を整えるのです。さらに、その恵みを受けた人は、無意識のうちに、自分の生活の場での人との関りの中で神を生かすことになるのです。これが「宣教」となり、神の「永遠の命」、キリストがもたらした「復活の命」が生かされるのです。
このキリストが示した「いのちの営み」への理解を深める期間として、今年も、地上で生きている間に、四旬節から復活節を迎えることができました。様々な事情で、ミサに参加できない方もおられるでしょう。それぞれの人々の神から頂いた掛け替えのない「いのち」が、「自己愛と自負心のいのちの営み」から解放され、全人類の救いを切に望む神の「永遠の命」に繋がる「キリストの復活の命」の恵みに新たに招かれるように、「ミサ」をささげさせていただきます。
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