2024年 聖母被昇天 第98号 カトリック茨木教会発行誌
「聖母被昇天の祭日」を迎えて
清川泰司神父
今年も「聖母被昇天の祭日」を迎えることが出来ました。カトリックの教義において「聖母被昇天」について「マリアが霊魂も肉体もともに天に上げられた」と説明されています。私は、この教義の説明について、その真意を理解する信者は、どれぐらいいるのだろうかと感じてきました。そもそも、カトリック教会の教義を理解するには聖書全体に描かれる人類救済を求める「神の御心」の忍耐強い働きを見出せない限り、その真意はつかみ取れません。今回、「聖書全体」から「聖母マリア」が、神によって昇天されなければならなかった真意についての解説を試みたいと思います。この解説の基礎となる「聖書全体」については、いつも高槻・茨木教会のミサの説教で語っているものです。
神は、天地創造の時に「神の似姿」、つまり御自分の協力者として人類を男と女にお造りになりました。そして神は、人類を「楽園」に住まわせました。そこで神は、人類に一つの戒めをおきます(人類に自由意志が与えられている)。それが「善悪の知識の木」から実を取って食べたら「死ぬ」というものでした。しかし、楽園に「悪魔」の化身である「蛇」が登場し、「女」に「(善悪の知識の木の実を食すると)目が開け、神のように善悪を知る者になる」と唆し、女は蛇の言葉を信じ「善悪の知識の木」に魅力を感じ食べてしまうのです。その後、男も、女に手渡されて「善悪の知識の木」の実を食べてしまいます。しかし、人は死にませんでした。ただ、食した人類は、神との関係なしには天地万物、また他者に配慮する力がないにもかかわらず、それぞれが自分本位の「善悪の基準」を頼りに、万物、他者を価値づけ裁く存在になってしまうのです。さらに、人類は、神の無条件の愛を感じられず、神を裁く存在と捉え、神との信頼関係を失います(原罪)。そして、人類は、悪魔のあてがいの光(富・名誉・刺激・自己満足・自尊心)を求め、その足らなさを埋め合わすために生きる存在になり果てるのです(苦しみの原因)。このことにより、人類は「死の世界(裁きの世界)」を作る存在になってしまったのです。これが神の言う「死」だったのです。神は、そのようになった人類を楽園から追放します。それは楽園の秩序を守る為でした。そして、神は、人類が御自分の御心を理解する迄、関りを持ち待つのです。
地上に追放された人類は、宇宙万物、他者に配慮できないにもかかわらず、それぞれが自分本位に生き、結果、不和が起こり、嫉妬が生まれ、挙句の果て殺人まで起こします(カインとアベル)。また、人類は、それぞれが自分の欲望に任せ生き、また、社会に不和が生まれ、弱肉強食の世界、裁き合いの精神が広がるのです。神は、人類が生む社会現象に心を痛め人類を造ったことを悔い、ノアを残し、全人類を水に沈めるのです。しかし、神は、この人類を死滅させたことを悔い、いつぞや人類が御自分の御心に立ち戻ることを信じ、二度と裁きを行わないことを誓い、人類の歩みを祝福するのです(現代も・・・世の終わり迄)。
その後も、万物や他者に配慮できない人類は、自らの陳腐な知恵で「バベルの塔」を建設します。それは、人類が神よりも優れている傲慢を示すシンボルに過ぎない物でした。そして、人類の一致に向かいます。しかし、それは、支配欲と自己顕示欲に基づく価値基準の一致であり、結局、弱肉強食による人間が人間を支配する世界を作り、排除を生むことになるのです。その末路を知っていた神は、その一致を未然に防ぐために、言葉をバラバラにするのです。
神は、人類が御自分との信頼関係を回復し、真の平和な世界を享受できるようになるために、御自分の御心を生きる一人の人間を選びます。それがアブラハムでした。その後も、神はイサク、続いてヤコブ(イスラエル)を選ぶのです。そして、彼らの末裔であったエジプトの奴隷となっていたイスラエルの民に関わります。それは、彼らが、御自分(神)に従う民として、人類の模範となるように教育する為でした。その為に、神はモーセを使い、イスラエルをエジプトの奴隷から解放し、彼らによって地上での楽園(神の支配=愛し合い、赦し合い、無力な者が大切にされ、偉い者は民に仕える者になる)を実現してもらうために「土地」を与えることを約束するのです。その為に神は、モーセを通して、御自分の御心を反映する「十戒」という「律法」を与えるのです。
しかし、イスラエルの民は「神の御心」が理解できず、金の仔牛の像を作り、他の民族と同じく「偶像神」を「神」とし、礼拝するようになるのです。これが「偶像崇拝」と呼ばれるものです。「偶像崇拝」とは、人類救済を望む「神の御心」と繋がらない、それぞれの人間の陳腐な欲望の成就を願う投影物に過ぎない「神」であり、悪魔のあてがいの光に過ぎないのです。「善悪の知識の木」から実を取って食べた人類は、この悪魔の光に魅了され、それぞれが利己的欲求の中で生きる術しか無かったのです。そして偶像神が支配する社会は弱肉強食の世界となり、人は生存競争の中で、貧富の差が広がり、優越感と劣等感に苛まれ、弱者は無視され、結果、対立を生み暴力と戦争を繰り返し、その環境の中で、殆どの人間は人生を終えるに過ぎないのです。神が、人類を、この現実から解放する為に、イスラエルの民を選び奴隷から解放したにも関わらず、彼らも偶像崇拝に陥るのです。聖書は、ここに人類の頑固な現実を描くのです。しかし、神は、御自分が選んだイスラエルの民を諦めません。彼らに約束通り土地(「約束の地」=現代のイスラエルの地)を与え、御自分の御心の世界を実現して欲しいと願うのです。その後も、民の「偶像神」への傾きは消えませんでした。
神は、イスラエルの民に土地を与えた後、「士師」という戦士を選び「約束の地」を守らせます。その後、民は他の民族と同じく力ある「王」を要求します。そこで神は民に人間の王の限界性を体験させる為に(サムエル記上8:1-20 参照)サウル王、続いてダビデ王、その後ソロモン王を与えるのです。結果、ソロモン王の時代、民は外国との交流から様々な「偶像神(刺激物)」に魅了され「神の御心」が見出せなくなります。その間に、イスラエルは北と南に分かれることになります。神は、偶像神からの民の解放を望み、御自分の御心を伝える「預言者」を送り続けます。しかし、その後のイスラエルの王の殆どが自分の権力を高めるために、民を「偶像神」の奴隷と化すのです。そして、王は、「預言者」に対抗する「偽祭司」、「偽預言者」を作り、偶像崇拝を利用する悪魔の光に、民を巻き込んでゆくのです(エレミヤ書 6 章 13-15 参照)。
そんな中で、北イスラエルがアッシリアという大国に支配され、その次にバビロニ アという大国がイスラエル全土を支配することになり、多くのイスラエルの民が捕囚されるのです。その間も、神は、「預言者」を送り続けるが、民の指導者もバビロニアの王の権力にへつらう者、そして、バビロニアの豊かさの中で富(金融=アモス 8 章4-8 参照)に心を奪われ、神が見なくなるものも生まれます。
しかし、そのバビロニアも、それよりも強力なペルシャに敗れ、ペルシャもギリシアに敗れ、ギリシアもローマ帝国に敗れ、イスラエルの民は翻弄され続けるのです。聖書の読者は、旧約聖書に描かれるイスラエルの歴史を知ることで、人類の栄枯盛衰を知り、悪魔の「あてがいの光」を求める者の儚さを俯瞰的に知る知恵を得るのです。しかし、神は、人類を、その儚さで終わらせません。神は、御自分の「永遠なる命(生死を越えた神の命)」、つまり、楽園での御自分との信頼関係に人類を復活させるために諦めないのです。そして、神は満を持して、今から約 2000 年前(ローマ帝国が支配する時代)に、御自分の子「イエス・キリスト」を、人間(神の似姿=神の協力者)として、地上に送ります。
神は、その地上に派遣する際に、御自分の御心に希望をおく「マリア」を選び(ルカ 1:44-65参照)、彼女の胎に「神の御心」である「神の子イエス・キリスト」を「聖霊」により宿らせます。それは、神の人類救済計画において、悪魔に魅了された女性「エバ」の 系譜を断ち切り、「神の似姿」として「神の御心」に従う女性の系譜を作る為だったのです。その為にマリアが必要だったのです。マリアは、この「神の御心」に応え、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」(ルカ1:38) と言う言葉で、神の人類救済の御心に自分自身を献げるのです。さらに、マリアは、 息子であるイエスの十字架の死と復活を目の当たりにすることで、神が人類の死を打ち砕き、永遠に変わらない神に繋がる生死を越えた命の営みを悟ることになるのです。この意味で、マリアは、この永遠の命に招かれたことから「マリアが霊魂も肉体もともに天に上げられた」のです。この恵みは、「聖母マリア」だけに終わりません。それでは、人類救済を求める「神の御心」の成就にならないからです。私たち信者一人ひとりも「洗礼」により、現世の命に死に(洗礼の際=悪霊を拒否する)、人類救済を諦められない神の永遠なる命に組み入れられる恵みをいただいているのです。さらに、善悪の知識の木」から実を取って食べ悪魔の支配下に陥った人類が、イエスの十字架の木により生まれた「キリストの体(ご聖体)」を、ミサの中でいただくことにより「神の御心」に生きる恵みをいただくのです。
このことにより信者の人生の目的が、悪魔のあてがいの光(富、名誉)を求めるだけに 終わらない、神の協力者として生きたキリストと共に生き、全人類の救済を諦めない霊である「聖霊」に力を得て、神の永遠の命に与り、地上における御国の完成を祈り生きる存在になったのです。神は、人類救済の為に、私たちにイエス・キリストを「新しいアダム」とし、聖母マリアは「新しいエバ」としてお与えになり、当初、御自分が人間をお造りになった意図に私たちを復活させる道を作ったのです。私は、この恵みを思い起こし「聖母の被昇天の祭日のミサ」を、皆さんと献げます。
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