2024年 クリスマス  第99号  カトリック茨木教会発行誌


「クリスマスを祝う意義=イエスが地上にもたらした救いの真意」

                                            清川 泰司神父

 「主の御降誕」である「クリスマス(キリストのミサ)」とは何か、そこには二つの意義があることを感じます。一つは、約2000年前に「主イエス」が、人類救済を望む「神の御心」を人々に伝えるために、神から地上に送られたことの祝いです。もう一つは、待降節(キリストの誕生と再臨を待つ)の流れから「主イエス」が伝えた「神の愛」が、この世に満ち溢れ、世の完成の時にイエスが再臨され、その喜びを共にすることの先取の祝いと言えるでしょう。福音によると、世の完成の時とは、すべての人が悪魔から完全に解放され、真の平和な世界が実現する時と言えます。

 「聖書全体(旧約、新約)」によって示される「神」は、人類救済を求めるご自分の御心を完全に人類に伝えさせるために「御子イエス」を「救い主(キリスト)」として地上(イスラエルの地)に送られました。神は、イエスをご自分の御心が完全に地上に現れることを待ち望む「マリア」の胎内に、これまた全人類の救済を望む霊である「聖霊」によって宿らせ、そして人間としてイエスを誕生させたのです。

 時が経ちイエスは30歳になったころ洗礼者ヨハネを通して神からの洗礼を受け、人類救済を望む「神の御心」を本格的に宣教する者となります。イエスは、その宣教に向かう前に「聖霊」に導かれ「荒れ野(困苦欠乏の場)」に行き、人類を支配していた「悪霊の誘い」を退けます。その「悪霊の誘い」を簡単にまとめると「富」、「名誉」、「自己顕示欲」、「自負心」、「承認欲求」、「支配欲」と言えるでしょう。イエスは、荒れ野においても、神の無条件の愛を信じ、人類のように悪魔の誘いの光(富、名誉、自己顕示欲、自負心、承認欲求、支配欲)による救いを求めませんでした。結局、悪魔は人類のようにイエスを自分の支配下に置くことが出来なかったのです。このことから悪魔は、自分の光により人間にコンプレックスを抱かせ神を見出せなくし、自分の支配下に置く存在であることが見えてくるのです。そのことを福音書は描き、人類が悪魔の支配下にあることを理解させるのです。事実、それぞれの人間は悪魔の誘いの光を求め優越感(虚栄)と劣等感(虚栄への憧れと嫉妬と妬み)に苛まれ、神の無条件の愛(誰しもが与えられた尊厳)に満足できず、また愛も正義も自分本位という悪魔の牢獄に生き、また死ぬに過ぎない存在であることが見えてくるのです。これが、悪魔に支配される人類の現状と末路と言えるでしょう。このことを客観的にイエスは人類に伝え、悪魔からの解放の道を開くのです。これが、聖書全体が示す独特な救いと言えるのです。

イエスは、人類を悪魔の牢獄から解放するために、当時、神から見捨てられたとされていた病者や障がい者に神の無条件の愛を示す「奇跡」を行い、たとえ話により「神の御心」を伝え、人の心に「神の国」を体験させ「悪魔の牢獄」からの解放の道を示します。その鍵となるのがイエスの「神の御心」を示す言葉です。その言葉とは「愛すること(ヨハネ13:34-35など)」、「赦すこと(マタイ18:22など)、「無力な者を大切にする社会の実現(マタイ25:40など)」、「敵をも愛すること(ルカ6:35など)」、「偉くなりたい者は、すべての人に仕える者になること(マタイ20:28など)です。実は、イエスの言葉から想像すると「神の国(御国)」では、これらの言葉は必要ありません。完全に実現しているからです。このことから人類が悪魔に支配されやすく、常に神に清められなければならない存在であることも垣間見えるのです。

イエスが宣教する中、その言葉と行いにより、当時、多くの人が魅了され、イエスは人々から人気を得ます。しかし、イエスは、人間の人気や評判が一過性であり、節操のない自分本位の心の動きに過ぎないことも熟知していました。そして、このイエスの人気に嫉妬し、自らの既得権(悪魔からのプレゼント)を失う危機感をもっていたのが当時のユダヤ社会における利権に与る指導者(宗教者・政治家)、また金持ちたちでした。

その指導者たちはイエスを陥れようと、法の正統性(強者の既得権を守る)により裁こうとします。しかし、イエスは全人類の救いというダイナミックな「神の御心」を示すがゆえに歯が立ちません。結局、彼らは自らのプライドが踏みにじられたと感じ、今度は群集心理を利用しイエスの殺害を企てるのです。ここにも「悪魔」に支配される人類の残念な姿が垣間見えるのです。

イエスには「十二使徒」と言われる弟子がいました。イエスは、彼らに「神の御心」を引き継がせるために徹底的に教育します。しかし、彼らも「野心」という悪魔の誘いの光に心が支配されていた為、イエスの言葉の真意を理解できません。そんな「十二使徒」の中で、いち早くイエスの言葉と行いが自分の野望に無益であると気づいた者がいました。それが「イスカリオテのユダ」です。彼は、イエスをユダヤの指導者に売り、裏切ることになります。福音書にユダが登場するのは、イエスが伝える神の言葉と行いに価値を見出せない、利己的野心の成就の為だけにしか他者と万物に価値を見出せない残念な人間のサンプルを示す為でした。つまり、福音書は、人類に「イスカリオテのユダ」のようにならないための警鐘を鳴らすのです。

イエスは、ユダヤの指導者に危険人物として逮捕されることを知りつつも「最後の晩餐」を「十二使徒」と行います。この晩餐でイエスは「パン」を「ご自分の体」とし、そして「ぶどう酒」を「ご自分の贖いの血(悪魔からの解放)として使徒たちに与え、人類救済を望む神の計画に彼らを結び付け、それを引き継がせる契約の食事(祭儀)を行ったのです。しかし、この時点においても使徒たちは自らの野心により、イエスの真意が理解できませんでした。

その後、イエスはユダヤの指導者たちに逮捕されます。その時、イスカリオテのユダ以外の使徒たちも怖くなって逃げ去るのです。実は、イエスにとって、この使徒たちの裏切りは想定内でした。それは、すべての人が悪魔の支配下にいる現実を明らかにするためでした。そしてイエスは独りで十字架刑に向かいます。

弟子の裏切り後、イエスは裁判を受けユダヤの指導者、また、ローマ帝国の軍人(権力の奴隷)たち、そして日和見的群衆により侮辱され、ローマ総督ポンティオ・ピラトから死刑判決を受け十字架の刑に処せられます。ここに、無実の者を殺す群集心理の中で良心を見失う人類の野蛮性が明らかにされるのです。そして、人類が「神の御心」を伝えた「神の子」を殺した現実が歴史に残されたのです。このことにより、人類が自らの野蛮性を見出すことで、その心を支配する悪魔の正体を見出す可能性が生まれたのです。また同時にイエスが無抵抗で死に向かい、殺した人類の罪の赦しを神に願ったことにより人類が悪魔の支配から解放され、神と人間の信頼関係に復活する道を開いたのです。イエスは、人類に悪魔に支配された現実と神の赦しとともに、人類救済を求める神と繋がる道を作り、十字架上で「成し遂げられた」(ヨハネ19:30)という言葉を残し死に至ります。これが地上でのイエスの生涯なのです。

しかし、人類の救済を諦めない神は、イエスの死により野望を失った使徒たちの前にイエスを復活させます。それは、ご自分の御心を使徒たちに宣教させる為でした。そして、復活したイエスは、使徒及び弟子たちに「聖書全体」を説明し人類救済を求める「神の御心」を伝えるのです。さらに、十字架刑の直前に執り行った「主の晩餐(最後の晩餐)」を思い出させるために、使徒及び弟子たちと食事をし「パン(ご自分の体=御聖体)」と「ぶどう酒(御血)」を分け与え、人類救済を望む「神の御心」と完全に繋がる恵みを残したのです(ミサの真意)。その後、イエスは使徒及び弟子のもとを離れ天に召され、人類が完全に悪魔から解放されるまで、神の右の座に着き神と共に「聖霊」の恵みを人類に送る者となったのです。その後、「聖霊」は使徒及び弟子たちに降り注がれます。その出来事が「聖霊降臨」と呼ばれるのです。その聖霊を受けた使徒たちは、イエスの示した救いの真意を悟り、人々に宣べ伝える者になります。この「聖霊降臨」の出来事をカトリック教会は「教会」の誕生としているのです。

教会は、この聖書全体に描かれる「父なる神の御心」と、「子であるキリストの御心」、それを人間に悟らせる全人類救済を求める霊である「聖霊」により導かれ、「世の完成」まで「神の御心」と繋がる為にミサを継承するのです。これが、教会の世における真の存在意義なのです。また「ミサ」により、悪魔の支配から解放を求める神の無条件の愛を知り、イエスが語った言葉に生き、人々(理想は信者でない人々)と恵みを分かち合うことが信者の本来の使命ということになるのです。それが同時に、「神の国(御国)」という真の平和の実現へと近づくことになるのです。

このようなことから信者は、このクリスマスの日、キリストの誕生を祝うだけではなく、いつ来るか分からない世の完成を望み、その完成の時キリストが再臨し、そのキリストと共に喜びを分かち合う者として、その先取りとなる「キリストのミサ」である「クリス(キリスト)マス(ミサ)」を祝うのです。それは、天に召された者、また、地上に生きる者が心を一つにして、人類救済を望む神の永遠なる喜びに与ることでもあるのです。実は、この喜びは「クリスマス」に限らず、日ごろの「ミサ」も、同じ希望と喜びの中で祝われているのです。

 

 

 

 

 


             

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